ジャカルタのブロックMでは、「縁日祭」が行われている!
たまたま音楽仲間「チカラン軽音部」の皆さんと日本食レストラン「丸福」さんでお会いしました。
今ちょうど帰ってきて、道中偶然にも考えていました。
どうして「ジャカルタ音頭」を作ったのだろうか?
と...
そこで思い出したのは、自分の幼少というか「小学校3〜4年」の頃であったでしょうか?
地元では、毎年「町内会のお祭り」が行われていました。
僕的には、地元の学校に通い、地元の仲間と毎日遊んでいたせいもあったのでしょう。
毎年このお祭りがくるのを楽しみにして居た気がします。
そんな中、当時何も楽器ができなかった自分でもなぜか?太鼓ならと思ったのか。
小太鼓を町内会の「お米や」さんのお兄さんに習っていました。
そこで納得ができたわけではありませんが、この打ち方やリズムなどが、とても好きになり、夢中に練習していました。
お休みの昼間になり、練習日になるとバチを持って通ったものでした。
そんなある日、「母親」が行ってはいけないと、言い始めました!
今となっては、どうしていけないのか?正確な事は教えてもらえませんでした。
いい年になって、当時のことを聞いてみると、あのお店の人は「**党」だから、近づかない方が良いと思ったということでした。
心理学的に言えば、母親が「ドリィームキラー」だったのです。
どちらかと言えば、争いを嫌う方の自分であったので、「意味もなく」行ってはいけないという母親の言うことを、聞いていたのです!
でもやはり「心の底」では、納得ができずに、欲求不満が溜まったのと、毎年車に乗って、太鼓を叩いて、町内会を回れた「楽しさ」が無くなっていて、
その年も、その次の年も、町内会ではお祭りがあれば、この「お囃子」を演奏して回る、車が自宅の前を回っていて、本当は自分だって、あの車の上に乗って、太鼓が叩けて、周りのみんなと一緒に、コラボレーションができていた、充実した体験を、悔しい中で、ぐるぐる思い返す日々が、何年も続きました。
今となれば、全てが言い訳になりますが、自分のやりたい事は、できないこともあるんだという「諦め」の心境が生まれてしまったのかもしれません。
人間とは、思いが叶わないものだという「大人」のわかったような「物分かり」の良い子供になっていました。見せかけだけの!
この歌を作るきっかけは、インドネシアで仲良くしてもらっていた仲間が、もしかしたら、日本へ帰国するようになるかもしれないということで、二人で話あい、同年代の二人だからできる、何かを残そうということで、「アイデア」を出し合い、我々しかできない事、インドネシアと日本の架け橋を形にということでした!
毎年のように参加していた、日本祭で櫓の上に乗っていながら、僕はあの頃の「自分」を思い、相棒は、日本人とインドネシア人が、日本の音頭で一つになっている姿を上から見ていました。
「ジャカルタ音頭」のコセンプトの完成!
僕的に言えば、当時の自分へ「あやまり」、今の自分へ「希望」を与えたかったのでしょう。
正直、自分の中では「ブレークスルー」的な行動を取り、それによるさまざまな「ご褒美」もありました!
大ヒットとなったわけです!特に「日本人社会」では。
また「日本」大好きインドネシア人たちから。
こんなことを振り返ってましたが、
今年はまた、半年終わっただけ、これから年末に向けて、さらなる気合いを入れて、
「紅白」向かって頑張ります!
以上!
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