では、どのような音楽をするのか?
他人にメッセージを伝えられる音楽を作ったり、歌ったり、同じような思いを持っている人たちとコラボレーションしたり、サポートしていくのでしょう。
大切なメッセージとは、歌詞だけではなく。
その歌の中にある、全ての物を使っての表現方法がもちろん含まれています。
1.驚かせることであったり
2.共感してもらうことであったり
3.先進的なメッセージを発することでもあります。
今、新たなアルバムも考えています。
ジャカルタ音頭以降に、進化したはずのカズを見ていただきたく思います。
ブログを読んでいただいている中で、興味のある方は、是非いっしょにコラボしましょう。
コメントをください。
在イが20年を超えた「Kazu」がインドネシアで発信する音楽通信ブログ。
インドネシアと日本を変える男!音楽を通して両国の発展になるようやり続けます!
プロジェクト「ハードゥア<ProjktH2>」やソロでのパフォーマンスや音楽制作プロデュース活動。
J-POPs「ジャカルタ音頭」は「プロジェクトハードゥア(ProjktH2)」というグループによって作られ、歌われています。
私「Kazu」と忍者「服部」。僕が作曲・編曲、彼が歌詞担当。ジャカルタで作られたローカル初の「ご当地ソング」です。
アレンジは、インドネシア人が大好きな「ダンドゥット風アレンジ」。さらに日本語と基礎インドネシア語が上手い具合に混ざった仕上がりです。
(WA) +62811110008232
Management Office Kazu
2013年11月25日月曜日
2013年11月23日土曜日
「音楽は、僕の人生を支えた!」3
「音楽は、僕の人生を支えた!」1の続きから
気が付くことを恐れていたのかもしれません。
それは、自立すること?
何が自分を支えてくれる?自分しかいない?
ほんとうは、見えていたことなのに。見ない振りをしていたのかもしれない。
今は、少しでも見えたことは、試してみることにしていますが。
本当は、音楽がそのほとんどを教えてくれていたのかもしれない..........
40歳後半でやっと、自分の音楽性も決まったようです。
それは、人の心に訴えかけられるような歌を作り、もし心が弱っている人が居れば、その人たちの気持ちがいくらかでも楽にしてあげることです。自分がそうしてもらったと同じように。
I want you to be happy by my music.
これがはっきりとしたのは、実は、ジャカルタ音頭の製作から販売そして、マーケティングを通して、全ての過程を自分がやってみて気が付いてことなのです。
それは、製作からRecording、販売や宣伝と全てのプロセスを自分がやっていく中でさまざまな人たちからの励まし、応援、賞賛のお言葉をいただきながらわかったことなのです。
さらに、発売後のライフ活動から得ていった自信みたいなものもありました。
もちろんまた、強い覚悟をして反省もたくさんして、中途半場はできないという決意も生まれました。
また、逆に言えば、その中で、自分に対する信頼を取り戻していく過程でもありました。
自分を愛する方法や自信の源みたいな、根っこみたいなものを見つけた気がします。
もう死ぬまでやるしかないと気が付いたのだと思います。どんな形かわかりませんが、
だから、それができるならば、どんなことにも立ち向かって行けるような気がしています。
応援してくれている皆様、改めてありがとうございます。
パパイヤさん、鳥元ジャカルタさん、JCC(Japan Communication Club) さん、レストラン店内で曲を流していただいたその他のお店さん。
Youtubeを見てくださった方々。さまざまな場所でパフォーマンスを見てくれた方々。イベントに呼んでくださったスタッフの方々、もちろんCDを買っていただいた方。
一緒に踊りを踊ってくれたインドネシア方々、日本の方々
今まで、ジャカルタ音頭を聞いてくれた全ての人に、感謝です。
そして、つづきます。続けます。この想いがもっともっといろんな人に届くように。
2013年11月14日木曜日
「音楽は、僕の人生を支えた!」2
ブログのお引越しを考えているので、お試し期間で、前のブログの内容をダブルで投稿してみます。
「音楽は、僕の人生を支えた!」2
「音楽は、僕の人生を支えた!」1の続きから
中学校2年の時から、ゆるい感じでギターを弾き、フォークソングのコピーから入って,その内に、オリジナルを作り始めるという、女ノ子にモテたいからという、お決まりのパターンでした。高校時代に始めて歌を作り、アコースティックでの3人編成のバンドを組んで燃えていました。
また、大学でも続け、さらに卒業しても、ぶらぶらしながら、それなりに音楽を続けていました。ソロでやったり、ロックバンドも始めました。
20代後半からは同時に、作曲の勉強や発声の勉強もしたこともありましたが、どうも自分が納得いく歌が作れない、歌えないなど、悩んでいました。そこへ、当時一緒にバンドを組んでいた、高校からの友人からの紹介で自己啓発のセミナーを受けることになりました。このセミナーでは、いろいろ危ないこともありましたが、ここでは止めておきます。ただ気付かしてもらったことがありました。人と心を割って関わってこなかったことに、そして、そこから出てくるものは、人の心に届くはずがなかったということもわかりました。人の本音の部分を見るように努力もしたし、そのために、つらい目に合わせてしまった人もいたし、友人関係も上手くいかなくなりました。
但し、このことがあって、目が覚めたことがたくさんありました。ある意味で、生まれ変われた期間でした。今思えば。つづく
中学校2年の時から、ゆるい感じでギターを弾き、フォークソングのコピーから入って,その内に、オリジナルを作り始めるという、女ノ子にモテたいからという、お決まりのパターンでした。高校時代に始めて歌を作り、アコースティックでの3人編成のバンドを組んで燃えていました。
また、大学でも続け、さらに卒業しても、ぶらぶらしながら、それなりに音楽を続けていました。ソロでやったり、ロックバンドも始めました。
20代後半からは同時に、作曲の勉強や発声の勉強もしたこともありましたが、どうも自分が納得いく歌が作れない、歌えないなど、悩んでいました。そこへ、当時一緒にバンドを組んでいた、高校からの友人からの紹介で自己啓発のセミナーを受けることになりました。このセミナーでは、いろいろ危ないこともありましたが、ここでは止めておきます。ただ気付かしてもらったことがありました。人と心を割って関わってこなかったことに、そして、そこから出てくるものは、人の心に届くはずがなかったということもわかりました。人の本音の部分を見るように努力もしたし、そのために、つらい目に合わせてしまった人もいたし、友人関係も上手くいかなくなりました。
但し、このことがあって、目が覚めたことがたくさんありました。ある意味で、生まれ変われた期間でした。今思えば。つづく
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